陽明文庫史料調査

維新史料部は、一九七八年十二月四日から八日まで、前年度に引続き陽明文庫の幕末維新期史料の調査をおこなった。
 今回、調査対象とした史料は次の通りである。(一)近術家の家司の記した雑事日記、(二)忠熙公日記、(三)忠房公日記、(四)目録で「書状」の分類に収められている書状類、(五)財政関係の帳簿。(六)その他 以下に調査結果の概略を記す。
    (一)雑事日記
 近衛家家司の日記。禁裡、公家衆、附武家、所司代および薩摩・津軽・仙台・藤堂・彦根等諸藩の京都留守居等との往来・贈答等について記録したもので、日付の下に当番の家司名を記している。近衛家の御用部屋で記された公的な記録であるという史料の性格から、記載内容には次のような制約がある。宮中でおこったことは記録されていない。勅問や公家からの書状は、その着信の記事があるだけである。ただし、禁裡附からの書状は詳細に内容が紹介され、幕府が近衛家にどのような働きかけをおこなったかを知り得る。来訪者の名はすべて判明するが、忠熙や忠房との会談の場には、家司は臨席していないので、会談の内容は、ほとんどわからない。右の点はあるが、雑事日記は、各局面での近衛家の交際範囲、情報のとり方、家の財政、有職故実などを知り得る重要史料である。宝永四年から明治四年まで、ほぼ全冊が揃っているが、今回は嘉永六年以降のものを閲覧した(日記のリストは、七八年十月に近世史料部が作成している)。以下、主なものについて内容を例示する。なお、日記の原表紙には何の記載もないので、雑事日記の名種は明治以降に付けられたものと思われる。
○「雑事日記 嘉永七甲寅 春夏」
(記載例)
「四月七日
 一辰刻頃、附武家長谷川肥前守取次沢村出雲守土山右将監其外修理職以下随役之輩四五輩参殿復徳謁肥前守処此御所仮皇居可被仰出御模様ニ付為内見罷出候旨申之 今暁孝光朝臣於聖護院粗御内命有之無遅滞見分可為致旨承之 即刻殿中奥表御清所女中部屋〓復徳可透引作事方随従悉拝見各引取弥御治候ハヽ、四五日之内御明渡可相成歟、尋ニ付何時ニ而も可相渡旨相答」
「四月八日
 一昨日急火ニ付諸役所日記帳面類御池江投入、昨日〓引上候処、水多悉難取上依之御領分岡屋村江申付水車三挺掛之、岡屋・枇杷庄人足を以池水をほし漸々取上之、                    」
○「雑〓日記 安政四丁巳歳 春夏」
(記載例)
「正月十一日
 一水府黄門〓以丈今度破邪集一部再抜被致以鷹司太閤御方内江進献被致候ニ付此御方へも一部進上之由也御相応之御返答申達                                      」
○「雑〓日記 安政四丁巳歳 秋冬」
(記載例)
「八月廿八日
   覚
  御殿近年御物入ニ付御助勢之儀御頼入御座候得共、当方江戸表震災等其外莫大之物入旁ニ付、昨年白銀三百枚差上候処猶亦先達而別段御便ニ而御殿御入用之儀臨時御大御物入ニ付、一廉之御助力差上方之儀御頼入之趣、無御拠承知仕候得共、当方臨時物入多端ニ而不容易差迫、此度続方見留無御座罷居候得共、不外御廉柄之御儀ニ付、当年中弐百五拾両明年中弐百五拾両都合金五百両以使者差上可申此段□使者申上候宜頼入存候、(虫喰) 御家司中〓、 
                                      津軽越中守〓
   八月                                  使者小見山藤兵衛」
○「雑事日記 安政五戊午年 春夏」
(記載例)
「一月十四日
 一伝奏衆より長延孝光両人之中、唯今非蔵人口へ可罷之趣申来、依之長延往向之処、関東江亜墨利加国〓別紙申立之趣御廻覧ニ相成候間、御所意之処御書取ニ而、来廿二三日之中伝送へ被附候様、尤御廻り留〓伝奏へ御書附御返却有之候様被申上、別紙帳面三冊口上書二通被渡」
「二月九日
 一老中堀田備中守参内ト云々 禁裏江黄金五拾枚、内々進献云々、                」
「二月廿七日
 一東坊城殿より御用之義有之候間、非蔵人口へ可参旨申来、即刻往向之処、御面会ニ而別紙之趣、関東江被遣候間、三公方江為御心得入御覧候旨被申上、 今度之一条、不容易、奉神宮始御代々江被為対候而も可有如何哉……関白殿太閤殿被命候事                               」
「三月十二日
 一(八八名事件につき)希代之珍事前代未聞之事共也、公家一揆是又前代未聞也、右連名之人数八十八人同道、殿下へ参上、及歎願云々                                 」
「三月十三日
 一依召小林民部権大輔参上、御対顔有之、
 一右府公御成、御対面有之、
 一午剋過御参内、鷹司様へ御成、酉刻還御、                          」
「三月十六日
 一午剋御参内、亜国一条御評義ト云々、末世ニ及候、可歎〓、還御戌剋、」
「三月十九日
 一右府殿御使小林民部権大輔、両度参殿、御対面有之、
 一座主宮御成、御通御対面、内府公両度御成輿、御通御対面、
 一右府公御対面、
 一広橋前大納言殿依招、非蔵人口へ俊良往向之処、御同人御面会ニ而、関東江被江被仰遣候御返答振、父卿御承知之通、御治定ニ付、此段申上之旨ナリ、九条大納言様中納言中将様御使等列座ニ而被申渡、
 一入夜伝奏衆依招、非蔵人口へ俊良往向之処、広橋殿御面会ニ而、明二十日関東江御返答被仰出候間、辰半刻御参被為在候様、三公御列座ニ而被申渡……」
「三月廿日
 一右府様御使小林民部権大輔御対面被仰付候様被仰進、則御対面、
 一辰半刻御参内、御輿脇四人、御先五人、申刻還御、東使参上、亜国一条御返答被仰出ト云々   」
「四月六日
 一付武士〓以書中、都筑駿河守儀病気之処、養生不相叶、今申半刻致死去候旨申来ル、過日切腹之由風聞あり                                             」
「六月廿四日
 一巷説云、去十三日下田港江墨夷船二三艘、魯国船一艘来津、近海辺迄ハ英国仏国船等追々入津之由」
○「雑事日記 安政五年 秋冬」
(記載例)
「十月二日
 一諸司代酒井若狭守殿、今日上京後初而参内相済、且此御方へ初入[   ]、主殿俊良取次両人下座筵ニ出迎、竹之間上へ案内、口状承之、今日参内、拝竜顔、天盃頂戴、准后へも参入仕、重畳難有奉存候、右御礼且諸御安全之御事珎重奉存候旨被申述、退入、無程於大書院江御出座、若狭守殿案内通ス、御附も附添来、御挨拶有之、     」
○「雑〓日記 安政七庚申年 春夏」
(記載例)
「三月十五日
 昨日之分
 一津軽留守居参殿西蝦夷地之内為陣屋附スツヽ領よりセタナイ領境迄之地所被下之乙部村〓セタナイ領〓御警衛被仰付候旨為御知有之                                  」
○「雑事日記 文久元辛酉年 秋冬」
 和宮降嫁に関する記事が多い。
(記載例)
「九月廿八日
 一此度和宮様関東御下向ニ付
  為 御迎大上〓花園石井殿表使村瀬兼而上京之処今日御家門へ為御使参上表御門より御輿寄へ被参先中奥休息之上於小書院御対面従関東御伝言御口状被申上大樹公天璋院様より被進物被露次表使村瀬御対面右御口説被下自分献上物等被露 但今日村瀬所労不参上 畢於北奥御饗応有之万端安政二年振合也     」
○「雑事日記 文久三癸亥歳 春夏」
(記載例)
「如月十三日
 一本多弥右衛門、尾崎八右ヱ門、高崎佐太郎、安達清一郎、御対面有之、             」
「如月廿三日
 一中京四条川原ニ足利尊氏公始義詮公義満公右三公之木像ノ首ヲ昨夜等持院〓取来、今朝川原梟首有之ト云、前代未聞事也、凶変可恐云々、                               」
「如月廿六日
 一尾張前大納言様、一橋中納言殿、松平春嶽殿等御参、於小書院有御対面、直相済、御退出于時戌剋過也、御休所送迎等如例、                                      」
「五月十日
 一攘夷拒絶日也、                                      」
「八月十八日
 一今暁御参議〓、六門内諸藩追々馳付、守衛甲胄式火事装束又は小具足、大砲小砲ニ而堅固之固也、尤其之内、薩州会津等別而(以下記載ヲ欠ク)                            」
○「雑事日記 慶応元乙丑年 秋冬 御用部屋」
(記載例)
「七月五日
 一松山留主居より式部大輔儀在坂中、堺表へ人数差出、彼地取締向一際厳重ニ相心得可申旨、若怪敷物有之候ハヽ、見懸次第無用捨召捕可申旨被仰出候段申来、                      」
「七月六日
 一一橋中納言御使、大坂表より帰京之旨御届御申上也、                     」
 一津軽殿側用人、当時在京西館平馬、依召参殿、此度御改革ニ付、御助勢之義、当年より五ヶ年之間、金五百両宛被進候様御頼之義、俊良長義御納戸方等出候て申述之上、於御居間御対顔、御直ニ猶又被仰含、家老へ之書状、去四日藤堂同様之振合也、                             」
「七月十九日
 一仙台留主居遠藤小三郎、依召参殿、今度御改革ニ付、御助勢之義、当年〓五ヶ年之間、金千五百両ツツ御頼之義、長義俊良御納戸方等出会申述之上、於御居間御対面、御直尚又被仰含、家老へ之書状、去六日津軽同様之振合也、                                       」
「九月廿五日
 一入夜、一橋中納言殿御使、大樹大坂滞留之処、急速用向在之、今日中ニも下坂致候様申来候、何分火急之義ニ而難差延大事と相聞候間、只今〓発足仕候、尤留主御警衛之義者松平肥後守、松平越中守へ厚申含有之旨御届被申上、                                       」
○「雑事日記 慶応二丙寅年 秋冬」
「七夕
 一当時物価沸騰ニ付、殿中へ為臨時御救、者々御金御下也、不可為後例之事也           」
 八月三〇日の列参事件は、参内のことだけ記してある。
 なお、明治以降は、政治向の記事は一切ない。
    (二)忠熙公日記
 近衛忠熙は、文政七年六月二十八日、内大臣となり、弘化四年六月十五日に右大臣、安政四年正月四日、左大臣に進み、安政六年三月二十八日、幕府の圧力で左大臣を辞した。この間、安政五年九月四日から十月十九日まで、内覧を勤めている。文久二年六月二十三日、関白となり、翌三年正月二十三日まで、その地位にあった。陽明文庫には、文政八年から明治初年までの忠熙の日記が、飛び飛びではあるが、かなり残存している。今回は嘉永六年以降のものを閲覧した。
 以下、主な記事を例示する。
○「日記 嘉永七年七月」
 七月一・二・十五・十六・二十五〜二十九日のみ記載されている。
○「(日記) 嘉永七年(閏七月)」
 閏七月一日より八月九日までの記事あり。
○「日記 嘉永七甲寅歳従十月」
 十月一日より十一月二十一日までの記事あり。
(記載例)
「十月朔日
 一原田才輔来、先日頼置候宇多国沢短刀直シ出来持参也                     」
○「(日記) 安政二乙卯歳従正月」
 記事は正月元日より六月二十二日に至る。六月二十三日以降は白紙を綴ったままになっている。
(記載例)
「正月元日
 一四方拝如例春次第旧年時萬朝臣仰進
 一両鎮守奉幣如例春忠房同断
 一読書始 先孝經次古今集居間也中間中房同様此序起君信君ニモ読初吉書 吉書始如例吉方申酉之間
 一神影拝先人麿次天神所々神棚拝如例
 一祝如例春例小書院之所当年ハ居間也
 一午後参賀関白左府忠熙内府左大将二条亜相忠房中納言中将九条少将等也於休息所御祝賜之無程御対面常御殿代賜 天盃巡流也於休息所御礼申上殿下ハ八景間代也
  仮御所中に付依先例如是也今度ハ板輿ニ而参也
  未半刻計退出 今日門流出迎無之年始祝出ス面会口祝遣ス居間也
 一夕祝如例年中奥也
 一原近江介来如例春玉ノ画到来                                」
「(六月)十二日
 一従 禁中御封中御内々 勅書アリ御請申上                          」
○「日記 安政三年再辰歳 正月」
(記載例)
「正月十一日
 一水戸中納言使来、此度大日本史改板ニ付被贈旨也、喜悦之由返答云々、五箱桐サナタ付也、    」
○「日記 安政三丙辰歳 二月」
(記載例)
「二月五日
 一薩摩中将江先日到来内書之返事、且旧冬之返書等遣ス、                    」
○「日記 安政三丙辰歳 三月」
(記載例)
「三月四日
 一薩摩中将江過日之返書、以得浄院才輔方江遣ス
 三月十四日
 一薩摩中将使者川上郷兵衛来、先月廿八日登城之処、阿部伊勢守申渡ニ而篤姫事御縁組被仰出旨、就而者此方養女ニ可相成旨被仰下、畏之旨礼且吹聴之趣、右ニ付
   肴代 二千疋 羽二重五疋 料金十三両
  忠房へ
   肴代 千疋 羽二重三疋 料金七両
   右之通到来、郷兵衛〓肴代五百疋、半切一箱、忠房江肴代三百疋、半切一箱到来ス、於小書院対面、                                               」
○「日記 安政三年従四月至六月」
(記載例)
「四月十二日
 一巳刻過、脇坂淡路来附添大久保大隅守
  於小書院面会ノ処、用談之儀ハ
  大樹御年若ニ付、姫君方本寺院方御再縁之儀、厚御願之趣も在之候ニ付、御聞届ケ候而御縁組可有之御沙汰ニ候、併御再三之御事、殊更当時厳敷御倹約中之折柄ニ申候間、格別諸事御省略、御手軽ニ御縁組ハ御取結之旨ニ候、就而ハ松平薩摩守娘、兼而之御由緒柄、諸事広大院御振合ヲ以テ養女ニ被仰出、御縁組御取結被遊度、其段御熟談取極候而表向申上候様、薩摩守江相達候旨、年寄共〓申越候、右ニ付、此度薩摩守娘養女ニ被成候儀、表立被申入候様仕度、右御先格趣とは自然相違之御振合モ可有之哉ニ候間、此段も申入置候也、 右之趣也、委細畏承知之旨答候、暫時談話被帰也、                    」
○「日記 安政三丙辰歳 従七月八月マテ」
(記載例)
「七月十六日
 一諸司代〓篤君養女之儀、関東願済縁組之儀申来ル、伝奏江願差出ス               」
○「日記 安政三丙辰歳従十月到十二月」
(記載例)
「十月朔日
 一入夜密々軍談聴聞ス木村倭亮
 十月廿五日
 一午後参内 御対面、青門ニモ被参也、御前江召以前ニ三条江面会、鷹司准后称呼之事、太閤ト称候事、内々談候而言上ス
 十一月十一日
 一篤君今日入城之由也、
 十一月二十日
 一午後参内 御対面、種々御談、青門ニモ被参居、入夜退朝、
 十二月十七日
 一昼後参内 御機嫌伺、御対面アリ、御庭作ニ而職人七十余人、御庭ニ而御酒 被下候テ、曲ヅキヲドリナド致ス、御慰ニ御覧也、簣子へ出見物致ス、      」
○「日記 安政二二(四)丁巳歳従正月至二月」
○「日記 安政二二丁巳歳従三月」
(記載例)
「三月七日
 一原田才輔来ル薩摩宰相伏見通行ニ付内々ヨリ琉球倫子紅白五反肴代金千疋到来ス         」
○「日記 安政四年従六月」
(記載例)
「六月四日
 一入夜軍談アリ徳大寺父子被来密々也
 七日
 一祇園会為見物薩州屋敷へ引向密々之事也
 七月十日
 一薩州〓到来之金子之内百両家中救ノタメニ納戸方へ出ス                   」
○「(日記)」
 安政五年七月一日より八月七日まで記してある。
(記較例)
「七月六日
 一右府内府三条前内府二条亜相中納言中将等被来、三家江連名之書取可遣相談ニ付、内々談合也、
 七月七日
 一異国一条ニ付、三家水戸中納言尾張中納言水戸前中納言等連名ニ而予内府二条忠房中純言中将等名連、別紙ニ右府三条等被認子細在之也、右書取写別ニ記置也、留主居尾崎八右衛門相招、納戸方〓相渡ス、 」
○「忠熙公(日記)萬延二辛酉歳正月」
 正月七日までの記事のみしかない。
    (三)忠房公日記
 近衛忠房は文久三年十二月二十三日、内大臣となり、慶応三年九月二十七日、左大臣に進んだが、同年十一月晦日、左大臣を辞した。忠房の日記は、嘉永五年から明治初年までのものがあるが、今回は安政五年以降のものを閲覧した。
 以下、主な記事を例示する。
○「日記 安政五戊午歳従八朔」
(記載例)
「八月七日
 一昼御飯早々御出門、内裏ニ被侯候事、右府、内府、三条前内府ニモ御参之由、是も御合躰ニ被為在候事也、今日御参之御子細ハ、間部下総守近々上京之由、夫迄ニ二応ハ三家已下押込辺ナトヲ御尋問被遊度、御時宜一昨夜従博陸書状ニテ勅書ヲ御廻覧也、三公并三条前内府等、今度以御一封、右御所存両三日ノ内ニ仰上ラレ候様トノ御事、父公其意不被得、御時宜哉ト思召、三公并実万卿等御談ニテ只今迄御評議ニ被召候ニ、何トテ此一大事之御場合、誠ニ以治乱之境、何共御心配之御場合ニ相成候ニ、ケ様ノ御示、何共〓〓歎しく思召、右故、昨夜博陸江御書状ニテ、昨夜御示之条々拝承、併甚恐入候得共、申合候儀も在之候段、明日午後参集ノ覚悟ニ候、何卒尊公ニモ御集ノ様、偏ニ希入ト被仰入候所、御返答ニ何も御承知トノ事、然ル処、今朝御文通ニテ、先日可参様トノ事、今日ハ不参ノ御心得ニ申置候、併必他ヘ仰被下候ハヌ様トノ事、是も何か大御子細之被為在候間、父上被仰候也、実ニ末世之至、歎息〓〓〓可致御事也、
 八月八日
 一昨夜父公子半刻頃御退出也、段々御子細被為在候御様子也、扠今日、叡慮之御趣意、以両役ヲ殿下ヘ勅問ニ相成候処、大不承知之由故、三公ノ所存ハいかゝと、御内々ニテ父公御始ニハ御尤様〓少しも存旨無由言上ニ付、殿下ヲ差置、三公之御取斗ニテ関東ヘ御くたり治定并三家ヘ御直達御治定恐悦也、然ル処、殿下ヲ差置、三公ノ御取計、いかに御意とは雖も被恐入候御次第、併不尋常非常ノ御事故、御請被仰上候ヘ共、今日非職方之御取斗ノ御恐ニテ、三公実万卿等、以儀定御進退御伺也、
 九月四日
 一依御司公未刻中朝廷ヘ祗候也、今日内覧宣下被為蒙候御事也、自宮中裏松書状ニテ、予ヘ只今宣下之由、恐悦申被聞候也、直ニ家僕ヘ右之趣伺ス、一統恐悦ニ出ル、
 一此日尚忠公内覧ハ辞退被聞召、誠ニ〓恐悦之御事也、
 九月五日
 一昨夜〓今日ヘカケ、内覧ニテ人々入来、何分御始ノ御事故、大御当感也、
 九月六日
 一内覧ニ付、御日参之処、今日ハ御不参也、
 九月廿二日
 一今朝右公〓御書中ニテ申来、良典朝臣事、町奉行土佐守〓呼出シ也、実ニ何之事ヵ乍不承知気毒也、先々併所務中故、名代差出ス由被仰遣候処、是非之招キノ由、所務ナレハ右所務為見改、人々罷趣候由、左様申内、与力同心五十人斗、小林宅ヘ踏込候由、扠々〓〓〓〓〓〓〓気毒〓〓〓〓〓〓千万〓〓〓〓事、彼方ニ差留候由也、
 十月二日
 一申刻前、所司代酒井若狭守上京後初テ来ル、以前ヨリ大久保伊勢守来ル也、於大書院御対面、御祝出ル、相済、予大衝立之処〓出頭挨拶ス、口上、此度ハ御上京、今日ハ初而、関東ニモ益御安泰恐悦ト申ス、亦彼〓も申ス、無程若州退下、其後更ニ於小書院ニ父公予列座、若州出ル、挨拶、無程予入、前内府公誘引、亦出ル、予直ニ退入、両公若州御談話被為在候、彼是二更頃ニ相済、予亦出ル、暫御談話被為在、若州退出、挨拶ス、於御小座敷ニ御夜食相済、御談相済、前内府被帰候事、                  」
○「日記安政六己未年自正月 正二位権大納言忠房」
(記載例)
「正月四日
 一旧冬廿九日伝奏ヨリ達ニテ老女村岡江御尋之義在之候間、里方へ当分被下候様、(サカラレ) 其上呼出ニ相成候。被下候ハヽ早々承知致度旨武辺〓申来ル、(サカラレ)扨〓〓驚被為入、夫々日々御勘考被為在候へ共、頓ト致方なく実々愁敷時節〓〓〓只々平穏之様祈入也。
 六日
 一昨夜従伝奏達ニテ村岡義明六日午剋……此上関東へ此段追々参り候人ニ同用ニ相成候而ハ実ニ心外之事どふそ〓〓〓〓〓〓程宜里方へ引戻シニ可相成、夫已祈り〓〓〓〓待〓〓〓〓入也。
 廿日
 一段々武衛六ケ敷次第柄、村岡ニも未不帰、旁誠々恐々、父公ニも被思召候御事且御本官御辞退被仰上、其上御落餝も被仰上候御事、実ニ不容易御事共、言語絶シ候事、段々御勘考之処、此儘ニ而被為成候ハヽ、いかかの変出来候哉ト被思召、長延……始被召色々御談被為在候処、誠ニ何共〓恐レ入候次第乍、御思召御決着被遊候御事ニテ、是〓直ニ御上別荘ニ御引移被遊候との御事ニ御決定被遊、夫ヨり〓誠ニ俄ニ大コンサツニテ、当分御入用物御用意ニ而子剋比御出門、御忍ニ而御花畑江被為成候御事也、……右之事、諸司代用達迄勢州行向申込也。扨〓〓〓恐入旨、併左様ニ被遊候ハヽ御宜少しニ而も進方御宜ト申候由、御用人本多孫左衛門方へ用達同伴ニ行向候由、御用人ニも誠ニ恐入候由……勢州丑半剋頃帰殿也、実ニ恐入候事也、言語難絶、併却ツテ御宜ト存上候事也、
 二月十一日
 一此頃日々夜々両度於鎮守ニ千度致ス也。詰所之人ニも同断、父公御辞退、御落餝被為止候様祈〓〓入タメ也。村岡ニも無難ニ里方へ引戻り、関東行ニ相成ぬ事ノタメ也、
 廿日
 一老中間部下総守今朝帰府也、大悪人帰京先〓〓〓珍重〓〓〓、
 五月三日
 一父公今日御落餝御当日也、可歎恐事無限〓〓〓〓恐入〓〓〓事也、
 一早天従禁中御封中来り、外ニ御一箱、外ニ御文之由来ル、御落飾ニ付、以思召御内々御文……賜旨也。外ニ勅書モ御拝領、予モ拝領、誠以恐入候事也、」
○「日記 安政六己未歳従八月七日 権大納言忠房」
(記載例)
「八月十一日
 一正三中納言入来、面会、四公御慎被免候……関東へ所司代〓申遣候趣意、急ニハ御六ケ敷抔ノ趣也、扨〓〓しんき〓〓な事也、
 神無月五日
 一勅問中山大納言被来、三条前内大臣所労依危急極位宣下之勅問、勿論落餝日同日分之由也、所意無之旨勅答ニ及候事、
 一実万公従一位推叙宣下也、
 十四日
 一関東ヨリ献上ノ二万金、従禁中御配当、摂家宮門跡方始、百宮百司へ賜也、百五十金拝領也、
 廿一日
 一去冬并当春関東へ下向之面々追々帰洛也、各少々宛トカメアリ、                」
○「日記 安政七庚申歳従正月為万延元三月十八日改元」
 九月八日迄の記事がある。
(記載例)
「三月十三日
 一九日之分内
 内府公〓廻文ニテ申来ル条ニハ去三日於江戸表井伊掃部頭登城被致処……申来ル、且堂上方世上風評ヲ被聞動揺被致候而ハ不宜事実ヲ夫々へ御申聞ケ之様存候とも申来ル
  右廻文之表荒増如斯也
 実々変事〓〓其後如何相成ト被存候事也                            」
○「日記 万延元年従重陽 忠房」
(記載例)
「十月十七日
 一従内府公封中勅問也
  扨々心配〓和宮御縁組之一条也何分兎角申上候等詮無事故ハツト愚昧之忠房兎角之所存無之候何卒群議之上御決定被為在可然とも宜令言上候へト計ニ申上置候事実ニ恐入何共申上様も無之也        」
○「日記 萬延二辛酉歳 従正月」
 記事は正月元日より八月二十三日までで、同二十四日以降は白紙を綴ったままになっている。第一丁に「正二位行権大納言藤原朝臣忠房記于時二十四歳」と記す。
(記載例)
「四月十九日
 一和宮内親王宣下也 参内准后等へ参上御歓申上ル親王へも同断申上了一条家へ行向申頃帰宅    」
○「日記 文久二年」
(記載例)
「六月七日
 一此月父公御還候也恐悦〓無此上事ニ御成其上御参内也                     」
○「日記 文久三従正月」
(記載例)
「正月八日
 一尾張前大納言慶勝卿上洛此亭へ向ケ着也、万端詰所日記ニアリ委敷不記
 九日
 一一橋中納言慶喜御入来両人面会、委敷ハ不記、
 十二日
 一小松帯刀藤井良節来両人面会アリ、                             」
○「日記 慶応三丁卯歳正月より」
 表紙に「従一位行内大臣藤原朝臣忠房于時三十歳」とあり、正月元日〜九日の記事。孝明天皇崩御に付、有職故実関係の記事内容のみ。
○「日記 慶応三年自十月」
 十月十四日〜十七日の記事あり。
(記載例)
「十月十四日
 一午半刻御評議ニ付参朝 摂政・予・右府・家父・□一殿下・九条亜相・有栖川父子[  ](虫喰)山階宮
  幕府〓言上之儀、臣慶喜謹テ皇国時運之沿革考ニ、王綱紐ヲ解テ相家権ヲ執テ保平之乱政権武門ニ移テヨリ……、(上表文) 
   十月十四日                                      慶喜
  右武伝へ大樹〓差出候ニ付御評議、子半頃帰宅ス
 十五日
 一大樹参内御評議也 予参朝ス 摂政・予・右府・家父・□言・帥宮・山階宮・内府・九条亜相
 一於小御所下段摂政初両役大樹ニ面会ス
  御沙汰書
  一祖宗以来御委任厚御依頼被為在候へ共方今宇内之形勢ヲ考察之建白之旨趣尤ニ被思召候間……
  別紙ニ
   大事件外夷一条……徳川支配地市中取締等ハ先是〓之通ニ而追テ可及御沙汰候事
  右両役立逢ニテ大樹へ渡ス
  丑刻過退出
 一自今三公日参被仰出也
 十六日
 一今日ハ不参
 十七日
 一巳刻参内 摂政・予・内府                                 」
○「日記 慶応四戊辰歳自正月」
(記載例)
「正月三日
 一伏見辺戦争ニ付入夜鴨社司林出雲守宅立退ク
 十九日
 一林和靖間詰之衆より今日午刻参内候様申来ル午刻著衣冠参内父公ニハ御不参予鷹司前右府等両人丈也岩倉前中将よリ今度
  王政復古ニ付而ハ何国迄も御趣意ヲ遵奉候哉兎角之存意ハ無之哉被糺問并ニ摂関被廃候事残念不快ニ可存哉右之尋等在之
  王政復古之義誠ニ恐悦之至何国迄も御貫徹コソ希所ニ候且又摂関之事是ハ一通リハ残念ニも存候へ共以叡慮被廃候エハ聊彼是存候訳ニ而無之と申入了
  無程帥宮三条前黄門等面会又候同様之事也了テ退出ス也
 四月廿三日
 一岩倉具視卿面会被申候ニハ関東先々聊鎮定慶喜水戸へ引取謹慎之事ニ付而ハ大総督宮より御所望之事御申来リ候ニ就而ハ近日議事在之候得共先内々見込之処申入候様尤家名被立下候ニ付人体之事且祿之事可被申候也右之事鷹司家へも可申入様との事候故行向申入候事也
 一長崎浦上村ニ耶蘇教ヲ専相学ヒ候者三四千人計在之右御所置之事長崎より行在所三条迄長藩井上文太ト申者申来り候由右之評議也諸大名も惣参上也
  議事在之誠ニ議事之模様ハおかしなもの全夷人流可歎〓〓事也
    (四) 書状
 目録で「書状」に分類されている書状類のうち、発信者が幕末維新期の人物(九条尚忠・三条実万・鷹司輔熙など)であるものを選び、内容の調査をおこなった。
 調査結果の内主なものは左の通りである。
○10958〜10983の海江田信義書状は、明治十年代のものである。
○12022〜12082は、すべて敍位除目に関するものである。
○36304近衛忠熙書状 近衛忠房宛(慶応四年正月五日)
「中々急ニハ京師之戦争ニハ不相成ト存候、」
○36305近衛忠熙(翠山)書状 近衛忠房(光山)宛(慶応四年二月二十七日)
「帥宮ハ長州尻をし、此宮ハ薩之旨、」
○36307近衛忠熙(翠山)書状 近衛忠房(光山)宛(慶応四年カ)
「もし非常之由在之候ハヽ、彼口〓申入候旨ニ而、長藩伊藤俊介か土藩田中譲介へ申候様との事」
○36316近衛近衛忠熙(翠山)書状 近衛忠房(光山)宛(二月十九日)
「夷人追々入込候様子ニ候、困リ入候事ニ候、今日ハ川越着之由承候、」
○36349近衛忠熙(桜樹)書状 光正・閑東宛(慶応四年正月四日)
「昨朝は黒谷江薩人数大炮引繰出し大変事」
○36350近衛忠熙(桜木)書状 光正・閑東宛
 前号と同じ内容である。
○36354天様へ遣候下書(慶応四年)
 文章は明かに天璋院(徳川家定室、近衛忠熙養女)のものであるが、筆跡は近衛忠熙である。忠熙が天璋院の書状の草案を起草したものと推定される。
「扠、去ル十月十四日、大樹公〓天下之政事
禁中江返上ニ相成候儀、誠に存らぬ事、大心配ニ御座候、(中略)禁中は禁中、徳川家は徳川家、諸大名は諸大名とそれそれはなれ〓に相成、人気大ニよろしからす、何時大変出来候もはかりかたく、日夜大心配と申事ニ御座候、諸大名〓は徳川家をふかくにらみ居候事、実ニ〓中々容易ならぬ事ニおはしまし候、当大樹公之御代ニ相成、天下ノ御政事を返上ニ相成候義、実ニ〓東照宮へ対し御すみなされず候得共、何分此時節にては、迚も〓大樹公の御ちからにて、天下を御治安なされ候事、中々六つかしく、夫ゆへ今度
 禁中へ返上に相成候事ニおはしまし候、それゆへ、只今にては、諸大名にて大樹公の御うけは大によろしく相成候事ニ御座候、又々御時節も御座候ハヽ、元の通、天下之政事、徳川家へ御まかせに相成候半[   ]、中々只今にては六かしき候事におり申候、(中略)
 異国人京都ちかくへもやかて来候事、関東は丸で異国人の住居のよし、実に〓口惜次第、右の事などは、大樹公の大御不出来に御座候、何分大樹公は余程異国人を御好み被成候義、それは定て〓御心得ちかひに御座候、しかし、今は諸大名とても、それそれ異国好みに相成候事ゆへ、最早とふも〓致かた無、こまりはて候、扠
 静寛院宮御上京の様子、定て御承知の御事と存まゐらせ候、
 此事は御もう様私には大ニ不承知の事ニ候、いく度も〓御とめ申候へ共、中々私立の存候様に参り不申、橋本中納言〓段々中山前大納言などへ申合せ、
 新帝様へ十分に申上、夫ゆへ中々私共の手に合不申、扠々致方もなく、実に〓心配〓〓〓〓〓ニ存候、」
○36357文久元年十二月近衛忠熙の島津久光宛返書案。
 『孝明天皇紀』所収。
○36360近衛忠熙書状案 十三代将軍家定御台所篤君宛。次の36361は、本状に同封した将軍宛書状である。
「……左様に候へハ亜国一条モ追々申立ニ相成、仮条約之趣ナト誠ニ〓容易ならさる事共ニて其御地ニテモ誠ニ〓是非なき事共にて、さそ〓大樹公ニモ御心配之事御察し申入まゐらせ候、此御地ニテハ、御所ニモ日夜叡慮をなやまされ、恐入り候御事ニおハしまし、備中守上京ニてたん〓申上られ候事共、実ニ是非なき御事ニハ候へ共
 大神宮御初御代々江対せられ候ても、たた今の御代ニテ夷国ニ親しみ候てハ実ニ
 神国之御汚れ、後憂モはかりかたく国中之
 人気おたやかならす候事共、昼夜
 御心配様何共申上様なき御次第におはしましつきてハ臣下一統ニモ痛心何とも申入かたく御察し被下候
 扠又か様の御時せつ実に 御家之儀
 ふかく〓御あんし被遊、また
 大樹公御世子もあらせられ候す、其御方御誕生之御事も(中略)御待申入候事、忠熙ニハ別して〓祈〓御待申入候事ニおハしまし、か様之御時せつから、西丸御守護もあらせられす候ては、(中略)夷国へ対し候てもいかか、国中人気も(中略)御国威もをのつから薄らぎ候事と
 御所ニもきつう〓御あんしの御事、備中守へ御沙汰もあらせられ候事ニ(中略)当時御急務之御事故、早々御養君仰出され候様、大樹公御政事之御扶助ニならせられ候御人体御ゑらひニて、御年長当時英明之御方を
 大樹公いまた御としも御壮年にあらせられ候へ共、御年ニかかハらせなく、御としめしの御方御急養君ニ立られ候て、西丸御賑々しくならせられ候様早々御沙汰あらせられ候様、私当時格別之間柄故、右之段其御方へくわしく〓申入候
 其御方ニモ此御時せつを常之御事とハ思ひなく(中略)早々
 大樹公江御申上之様
 禁中ニテ関白申され候太閤〓も此
 思召之所早々申入候抔被申候儘猶又御たん生もあらせられ候ハヽ、御孫立られ候ハヽ、順養子ニも成せられ候抔……                                          」
○36361忠熙書状案 徳川家定宛(安政五年四月二十一日)
「今度墨夷一条ニ付実ニ御心配之程奉察候
 禁裏ニモ先達以来誠ニ御心配被遊候、度々御直ニ御沙汰共相伺、何共恐入痛心仕候、先頃叡慮御伺として備中守御差登シニ付猶又段々御勘考被為在候テ公武御合体、永久御安心之様ニ被遊度御趣意ヲ以、則備中守へ一応之御返答被仰入候、其儀ハ委細御聴ニ達候と存上候、右ニ付テモ御心配可被為在と奉恐察候、但委細御意味合御届キ兼ニ相成候テハ深々心配仕候、
 禁裏思召之処モ、実ニ時勢無御拠御事ニ候得ハ、唯今打払なとの御沙汰之儀ニハ決而不被為在候得共、何分此度アメリカ人申立ノ廉ハ実に不容易義共深々御心配被思召、忽チ御国人夷狄ニ馴染、別テ邪教等相弘コり候テハ誠ニ如何様之禍を引出シ可申哉と不一方御苦悩被遊候
 伊勢太神宮を始御代々江被為対且又
 東照神君御以来之思召ニモ如何哉ト一体日本国之御大事ハ申迄モナク
 其御地之御為をも深々被思召、何卒永久天下泰平公武御安穏之様被為思召候、夫故猶又三家以下之御沙汰被為在候テ、永世御安全後患無之様之儀衆議被仰付候上被聞召度、公武御合体往々迄御安心之様被遊度との御事
 何卒
 叡慮之処御程能御汲取被為在候テ御勘考ニ相成候ハヽ如何計御安心之御儀ト奉存上候、呉々モ其御家之御儀厚被
 思召候段ヲ深御承知ニ相成候様致度奉存候、実ニ御大事之御場合、公武御間柄之辺モ御案シ奉申上、於忠熙モ日夜痛心仕候、乍恐此等之儀御案シ奉願候、右者極内々不顧恐申入候事
  四月廿一日                    忠熙                  」
○37417正親町三條実愛書状 関白宛(文久三年正月三日)
「攘夷御決定ニ付諸藩江仰出候内於対州は別而守邊要地ニ付一日も早ク被仰渡度旨頻ニ申出候ニ付別紙二通何卒今日ニも武伝江御渡しに相成早々対州江相渡候様御下知願上候                 」
○37447島津斉彬書状(嘉永六年六月)
「大樹公廿二日朝……御大切ニ被為及候由誠ニ以て驚入……右ニ付而は例之御儀も如何可相成も難計御座候えども(下略)                                        」
○37448島津斉彬書状(嘉永六年七月十日)
「扨江都御大変之儀御内々被仰下候例之御儀も如何(下略)                    」
○37449島津斉彬書状(嘉永六年七月十日)
「伏見通行之節は種〓御ねんごろの儀何よりの御品……道中無滞廿二日帰着仕候           」
 なお、書類三〇九袋の中に「国事御廻達写」三冊があり、内容は、
 a 慶応二年八〜十二月、b 慶応三年一〜六月、c 慶応三年七〜十一月と年代順になっている。そのaの九月廿日のところに、慶応二年七月十四日茂勲(芸)、茂長(芸州三次)、茂政(岡山)、茂韶(阿)、斎裕(阿)連名の建白書がある。以下紹介する。
「……此上弥大乱と相成候時は其虚に乗シ常々潜匿致居候浮浪之徒蜂起之程も難計、万々一乍恐
 輦轂之下ニ此件相発候に於而者、無此上モ奉恐入畿内近国中国四国九州諸藩軍務過半長征ニ取掛居孰も自国寡兵と相成、何ヲ以可奉守護歟奉心配、一時余国ニ事起り候得者、所々ニ伝染可仕者必定之勢ニ而、内地之紛乱ニ国力疲弊仕、此機ニ臨ミ外冦指迫候時者、実に皇国之御大事ニ被為在、長征者暫差置、皇居奉守護之外、奉申上も恐入候得共、時変ニ寄鳳輦ヲ被為動候様被為至候而者誠ニ以無勿体且御安危ニ被為係深々奉恐入苦慮仕候、    」
    (五)帳簿類
○6510〜6521御蔵米出入日記
 元治元年から明治六年までのものがあり、近衛家の蔵米収入と扶持米の支出とを記している。元治元年の収入の合計は、左のようになっている。

『東京大学史料編纂所報』第14号